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職業推理作家の日常など、外から見たら作家以外の自宅勤務者と変わるところはない。たまに外を歩いても、芸能人のように 外を歩いて声をかけられるようなこともないから(著者近影をじっくり見て作家の顔を覚えているのは、よっぽどのマニアだろう) 自分の作品が一人や二人ではない、大勢の人に読んでもらっているのだということも、普段は忘れがちだ。私にとっては、元々 推理小説をただ書いていることが自分の喜びで、苦しみなのだ。学生時代から、作家になりたいという気持ちは切実なものが あったけれど、作家の生活とはどういうものなのかという具体的なイメージは希薄だった。一方で、のめり込んで書き続ける 行為そのもので満ち足りていたのも否めない事実なのだ。そう、心の中に渦巻くものをどうしたらいいか分からずに、ただ書き 続けたあのときのように。 大学二回生で読者を一人得るまでは、他人に読んでもらうということはどういうことなのか、全く知らなかった。幸い、生涯 最初の読者は私の作品を気に入ってくれたらしく、私が欲しい言葉をくれたけれど、そんな相手とこうなっているなんて、卵から 孵ったばかりの雛が動いているものを母親と思ってしまうのと同じくらいイージーだと、反省しないこともないのだ。もっとも、 私は自分の賛美者ばかりを近くに置く趣味はないし、私の最初の読者も、賛美者なんてかわいいタマではなく、知ってか知らずか 時々痛烈な言葉で制作中の作品をひっくり返してくれる。職業作家となった今は、担当より先に作品を見せることは殆どどない けれど。 火村は、私が常に意識している唯一の読者だ。 初めて自分の本が出版されたとき、誰より先に渡した相手は火村だった。「やったな」と、くれた言葉は短かったけれど、それ だけで、デビューできたんだという実感が湧いてきたものだ。デビュー作だけで消えていく作家はごまんといる。続けていくこと こそが作家としての力量なんだと担当に言われ、素直にデビューを喜べなくなっていた自分の中に、ぽっかりと温かいものが湧き でてきて、じんわりと喜びがあふれてきた。そのときのことを思い出すと、恥ずかしいことに今でも目の奧が熱くなる。 専業作家となり、日常的に作品が人の目に触れるようになった今でも、単行本が出たら火村には必ず直接渡す。あのときの 素直な気持ちを思い出すために。そして、皮肉屋のセンセイも、このときばかりは素直に笑って受けとってくれるのだ。口では 「最新の後悔だな」などと憎まれ口をたたきながら。 ところで、大学の先生というものは、自身は研究が本業だと思っているようだが、実は学生に授業をするという義務もある。実際 にどれだけ授業の準備に時間がかかるものなのか私は知らないが、授業も研究も片手間にするべきことではないだろうから、忙しい のは想像に難くない。少なくとも、締切りあけの専業推理作家よりは忙しいだろう。 ゴールデンウィークには夕陽丘に入り浸りだった火村だが、その怠惰が祟ったのか、ここ三週間はとんとお呼びがかからなかった。 電話をする暇もないというわけではなかろうが、私にゴールデンウィークあけの締切が一本あると知っている彼は、急用でもなければ いつもの通り遠慮しているのだろうし、私もこれといった用事がないのに火村の仕事を邪魔することは本意でないから、昨日無事 脱稿したが、あえて電話はしなかった。 それに、電話だと様子を伺うことはできないが、直接昼間に研究室を覗けば、どの程度余裕があるのかをみて出直すこともできる。 忙しそうなら、北白川の下宿に行って婆ちゃんとおしゃべりしたり猫たちと遊んだりしながら火村の帰りを待ってもいいし、川縁を 散歩したりベンチで読書したりしてもいい。 私はうかれていた。無理もないと思って欲しい。盆と正月ではなく、脱稿と自分の新刊発行が一緒に来たのだから。締切りあけと いうだけでも相当の開放感だが、できたてほやほやの新しい単行本を、珍しく発売日に、火村に直接届けることができるのも嬉しい。 著者献本は発売前に手元にあるわけだが、会う機会があるまで火村に渡すことはない。このため、普段大抵は彼の手に渡る前に新刊が 店頭に並ぶことになる。義理堅いのか彼特有の照れなのか、私が「進呈するわ」と手渡すと初見のような顔をするが、火村がいつも 発売日に私の単行本を手に入れてすぐに読んでくれていることを私は知っている。一応隠してはいるようなのだが、整理の悪い彼の こと、下宿の床に開いたままふせて置いてあれば、いくら鈍い私でも気づいてしまう。自分の本が、友人宅の床においてあったら怒る 先生もいるかもしれないが、私はたまにウリとコオの枕や桃の爪研ぎになっている自分の単行本を見ると、いいようもない満ち足りた 気持ちになるのだ。新しいというのに開きぐせがついた本を見ると、きちんと読んでくれているのが分かる。お義理で買ってくれて いるのではないと思うからか、下宿の光景に溶けこんでいるのが単純に嬉しいのかは分からないが、後者だとしたら、私も随分と ヤキがまわったものだ。 勝手知ったる研究室のドアノブに手をかけようとすると、不意に横から手が出てきたので、危うく手首をひねるところだった。 勢い余ってその手の持ち主と共に一緒に室内になだれこむと、ぽかんと大口を開けた悪友の顔が目に入った。彼も何かに気をとられて いて、ドアの方も見ずに勢いよく開けようとしたら、私という障害物がいきなり目の前に出現したのだろう。 「出前にきたで」本題の新刊は小脇に抱えたまま、照れ隠しに手みやげのケーキを掲げてみせる。この先生は、顔に似合わずバタ くさい菓子が好きなのだ。 火村は、私を室内に招き入れ、ご丁寧にも入室禁止の札を出し、ドアを閉めた上に鍵までかけてしまった。不自然にも、全て左手 一本で器用にこなしたが、おなじみのジャケットの懐に入ったままの右手が気になる。 「締切は無事終わったのか」口調はいつもの通りだが、目が泳いでいる。 いつもと違う火村の様子に、私もいたずら心を刺激され、仕掛けてみた。「逃げてきたんや」にっこり笑って「匿ってぇな」 「ほう、ここも片桐さんの捜索範囲だということを知らないか。一分以内で弁明してみろ。武士の情けで片桐さんに伝えてやる」 いつの間に共同戦線を張ったのか。常々火村に原稿をもらいたいとアプローチしている片桐さんだが、ここまで食い込んでいる とは知らなかった。それにしても、せっかく締切あけだというのに、逆戻りさせられてはかなわない。締切に追われるということ は、仕事があるということだから、ありがたいことこの上ないのだが、今日くらいは清々しくしていたいものだ。 私のボケを受けて、一瞬でいつもの調子を取り戻した火村に、私はあっさり降参した。 「冗談や。ひとつ締切終わったんで、遊びに来た。暇そうやな」 「暇とはよく言った。俺の神聖な研究の城におしかけておいて」 「俺にとっては、神聖な城やなくて懐かしの母校やけどな。母校に来て、コーヒーでも飲も思たら、たまたまお前に会うて しもたんや」 火村はなんともいえない顔をした。いつもの調子で皮肉を返してくるのを期待して軽口をたたいたつもりだったのだが、まずい ことを言ってしまったかとひやりとする。彼は自分の精神的脆さを、未熟さだと断じて恥じている節があり、「いつまでも社会に 出られないで学校にいる幼児的な研究者」という揶揄ともとられかねない私の発言は、そのデリケートな部分に触れてしまったの かもしれないと気づいたのだ。穿ち過ぎかもしれないし、勿論、私は火村をそのような社会不適合者と思っているわけではない。 火村もそういう意図の発言だと思ったわけではなく、ネガティブな解釈もできる言葉に気をとられただけだろうが、嬉しくは ないだろう。 言葉を紡ぐことを生業にしているというのに、私は、我ながらあきれるほど口から出る言葉に無頓着になってしまうことがある。 もっとも目の前の友人は、そんな私の悪癖を知っていて長いことつき合ってくれているし、私も、火村から出たどんな言葉も、私を 傷つけようとして発せられたものだと思うことはないから、お互い同じだと信じたいところだ。 そのまま黙って窓に歩み寄った火村の表情を見たくて、更に続けた。ここにいることを火村に許されていると感じるために。 「ところで、その懐のものはなんや」 直球勝負だ。繊細で鋭敏なくせに、変なところで察しが悪いこの友人には、私の言葉が予想外のものだったらしい。目に見えて あわてて、ドサリと足下に懐の紙袋を落としてしまった。中身は半分飛び出たが、何なのかを当人の口から言わせたいというのが 人情だと思う。それとも、これこそが私の未熟さを表しているのだろうか。 「あ、学生が来たかな」 素早く紙袋を拾って背中に隠した助教授は、今時誰もしないようなベタな方法で話をそらそうとした。もうすっかりばれている というのに、往生際の悪いことだ。 「来ぇへんよ」丁寧に追いつめる。「さっき入室禁止にしとったやん」 ムウともギュウともつかない音を発した火村は、ついに降参した。 「お前が持ってきたのと同じもんだ、畜生」 同じと言われて少し驚いたが、私はといえば持ってきた新刊をケーキの入っている手提げ袋から出し、むき出しのまま小脇に 抱えているのだから、それも分かって当然だ。抱えていた本を持ち直し、ゆっくりと火村の方に表紙を向けてやる。 賞状のように恭しく本を受け取った火村からは、珍しく皮肉が出なかった。ダメージから立ち直っていないだけかもしれないが。 「どうしたん、今日は何ぞ可愛くないこと言わへんの」勝利を確信して私はにっこり笑う。 「ああ、その代わり読者サービスはたっぷりしてもらうからな」 逆転サヨナラ負け。
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