【黙ってろ】20年目になんとなく20のお題(アリスエキスポ☆2009配布お題)より

 

火村が血相変えて飛び込んできたとき、私はちょうどスプーンに手をのばしたところだった。

匙を使って深窓の姫のようについばむか、額に汗する労働者らしく器のふちに口をつけてずるずる啜るかと悩んだ

結果だ。

冷めるのも顧みず長考に入りかけたが、同室者がいる大部屋に入ったことだし、上品にしようと思ったのだ。

選択の決め手は、もうひとつある。

なにしろ、人生初……ではないのだろうが(記憶にないが、乳児の頃に経験済みだろう)、あまり食べる?飲む?

機会のない重湯だ。スプーンでも使ってゆっくり口に運ばないと、楽しみにしていた丸三日ぶりの食事だという

のに、あっという間に食べ終わってしまう。

私は手を引っこめ、食事するのを後回しにして、ベッドの脇にどっかり腰を下ろした火村に向きなおった。

「あんな……」意味のない間投詞。

 どうも口を開きづらい。

火村は、口をへの字にしたままトレイを指さした。

「早く食え。冷めちまうだろ。冷めた重湯なんて、食えたもんじゃねぇからな」

その通りだ。相手には失礼だが、食べながら話せば長い話———すなわち言い訳をすることにした。

 

 

生来健康で、身の回りにも病気がちな者がいないのはラッキーだが、病院慣れしていないのが災いした。

ことの顛末はこうだ。

今回の仕事では、土壇場でトリックの致命的な欠陥を見つけてしまったため、かなり神経をすり減らした。

修正は何とか間に合ったが、帳尻を合わせるために三日に亘る昼夜ぶっ続け、ほぼ飲まず食わずでの執筆。

どんな仕事をしている時でも、締切り間際になると灰色の脳細胞は活性化し、ナイトヘッドまで目覚める気がする。

ピンチに陥るほど、この傾向は顕著だ。———私だけだろうか。

ともかく、ほぼナチュラルハイで締切りを乗り切った私は、編集部に泊まりが決定してしまった片桐氏の「OK

です、お疲れ様」の声と同時にベッドに倒れこんだが、眠りにつくことがどうしてもできなかった。怪我の功名で、

極限状態でひねり出したトリックが、私の作品の中では一二を争う出来のよさだったから興奮したのかもしれない

し、単に疲れすぎていただけかもしれない。しかし、寝不足と眼精疲労で頭痛までしていた私の体力は限界だった。

どうしても眠りたかった私は、ナイトキャップにウイスキーをツーフィンガーいった。正常な判断力があれば、

空腹に強い酒を流し込むことがどういう結果を引き起こすか、火を見るより明らかなのだが、悲しいかな、トリック

の神は健康管理までは面倒見きれないということらしい。

酔いはすぐに訪れ、眠気に誘われたのもつかの間、猛烈な吐き気に襲われた。

後悔先に立たず。何しろ食べていないから吐くものなど何もないのだが、酷くえずくのだ。ペットボトルの水を無理

やりノドに流し込み、便座を抱え込むようにして胃液を吐き続けていると、パッと鮮やかな朱が散った。

最初、何事かわからなかったが、一瞬遅れて口の中に血の味が広がる。まさに血の気がひいた。

やばい。

意識もはっきりしているし、出た量は便器一杯あるものの、その後は際限なく血が逆流してくる様子もないから、

救急車を呼ぶまでもないだろう。しかし、ノド付近の浅いところが切れたわけではないようなのだ。このまま朝まで

様子をみていいものかどうか分からないし、何より怖い。

私は、間を取ってタクシーで病院に行くことにした。夜やっているところなんて知らないから、タクシーの運転手を

勝手に水先案内にするつもりだ。

馴染みのタクシー会社に電話した後、もし万が一突然意識がなくなっても発見されるように、到着の連絡を待たず

マンションの入り口まで降りた。よほどひどい顔をしていたのか、親切な運転手は病院まで送ってくれただけで

なく、固辞する私を車椅子に乗せて救急外来まで運んでくれ、保険証を取り上げて受付も済ませてくれた。しかも、

後から気付いたのだが、料金を請求せず、名乗りもせず。

こういう人に会うと、世の中捨てたもんじゃないと思う。

 

救急外来に到着して二時間。弱っているときは、まさに天使に見える白衣の天使が刺してくれた点滴ですっかり吐き

気が治まった私は、一抹の恥ずかしさと共に医者と向かい合った。最初に顔を見せて点滴の指示をした後二時間ぶり

に姿を見せた彼は、「吐き気で目が覚めてよかったねえ。吐いたものがノドに詰まって死んじゃう酔っ払いもいるか

らね、ラッキーだよ君は。うんうん」と、軽いノリであった。

激しく吐いたのが原因で、胃の入り口近くが切れてしまっただけで、出血が止まっているから特に心配ないのだ

そうだ。

三日間食べていないと言うと、これまた軽いノリで短期の入院を勧められた。ついでに念のため胃カメラも

やっとこうかと言う。ついでと念のためは普通並べて使わない言葉だと思うが、気分が良くなったら眠くて

仕方なく、無事家に帰り着く自信がなかった私は、こっくりと頷いた。

 

そして今にいたる。

胃カメラの結果は、どうということもなかった。今回切れた傷は浅く、動脈が露わになっているわけでもない。

他には、潰瘍の痕があるくらいだったそうだ。同年代の男に較べればやや薄いが、血の濃さも問題なし。要するに、

出血量もたいしたことはなかったらしい。

困ったのは、財布と鍵は持ってきたが携帯電話を忘れてきたことだ。

慣れない状況に軽い恐慌状態だった私は、病院に着いて電源を切ろうとして初めて、家に置いてきたことに気づいた

のだ。情けないことだが、メモリに頼り切っているために火村の携帯電話の番号をダイアルする機会のない私は、

番号を覚えていなかった。そのため、彼に直接連絡する術がないと思い込んだのだ。

冷静に考えれば、英都大学の代表番号を公衆電話から案内サービスで調べて、研究室にかければいいのだが、思い

つかなかった。

その代わり、胃カメラの検査前に下宿に電話したのだ。昔の記憶ばかり鮮明なようで、少々老いたかと感じないでも

ない。学生時代にかけ慣れていた共用電話の番号は、二十年たっても覚えていたのである。

現在他に店子のいない篠宮さん宅の共用電話は、実質火村専用だ。しかし、火村の帰りは遅い。廊下に響きわたる

であろうことを分かっていて、夜や早朝にベルを鳴らす気になれなくて、朝九時過ぎにかけた。不摂生を窘められる

のは分かっているから、火村と直接話すのをなるべく先延ばしにしたいという気持ちが、どこかにあったのかも

しれないが。

留守番電話などという洒落た機能は付いていない黒電話だ。昼間の共用電話には、当然大家さんが出る。篠宮さんを

心配させてはいけないので、携帯電話を忘れて家を空けていること、連絡先として病院の代表番号とベッドサイドに

借りている電話の内線番号を伝えるにとどめた。婆ちゃんは、取材かカンヅメでホテルにでも泊まっているのだろう

と合点したようで、おきばりやすとの励ましを聞いて、受話器を置いた。

誰にも説明していないのだから、火村が事情を知っているはずはないのだ。電話をしてきたのなら、内線までまわし

て貰えるはずだし。だいいち、夕飯の時間とはいえ、病院でのこと。こんな時間に帰宅して婆ちゃんから伝言を

聞いたわけもない。

 

 

私の《話せば長い話》が終わると、最後の疑問は、すぐに氷解した。

「婆ちゃんが、大学にわざわざ連絡してくれたんだよ。アリスの携帯電話にかけて、繋がらないって俺が心配する

といけないと思ったらしいぜ。俺の携帯電話の番号を訊いて、お前が直接かけてくりゃ済んだんじゃねぇのか」

「それはそうやけど」こうなると、怒られるのが嫌だったなんて言えない。「何か用事でもあったんか」

女子高生でもあるまいし、私達は、常日頃頻繁に電話をかけあっているわけではない。ついつい長話になることは

あるが、基本的には用事がなければ電話をすることはないのだ。

火村は、大げさに肩をすくめてみせた。「先生が、俺に電話して欲しがったんだろうに」そんな伝言を残した覚えは

ない。ブンブンと勢いよく首を横に振る私を可笑しそうに眺めながら、火村はこう言った。

「不安だから電話したんだろ。家を空けるからって、いつもはいちいち連絡してこないだろうが」

ぐうの音も出ない。確かに、今月の生活費がまるまる入った財布を持ってきたので、本来は誰にも連絡しなくても

大丈夫だったのだ。パジャマや歯ブラシは売店で買えるし、たかだか二泊。携帯電話を持っていなかった頃にも、

誰にも言わずにふらりと泊まりがけで出かけることはよくあった。

悪あがきかもしれないが、抵抗を続ける。「なんで来る前に連絡してくれなかったんや」

「もちろん電話したさ。だからここが分かったんだ。かけてみたら病院に繋がるし、検査かなんかでいないのか、

内線はつながらないし。こりゃ、直接行った方が早いと思ってさ。俺の顔見て、安心したか」

憎らしいことに、ニヤニヤと目を細めている。

「俺は全然心配してへんかったんやけどな、先生がちゃんと検査しよって。健康診断みたいなもんや。おかげで健康

やってことも分かったし、三食昼寝付きやし、極楽や」

「言いたいことはそれだけか」気づくと、ニヤニヤ笑いはなりを潜め、火村の視線が鋭く私を射貫いていた。

「お前が自分を心配してるかどうかなんて、問題じゃないぜ。俺が……」

「え、なに?」火村の声が不意に小さくなったので、私は彼の口元に耳を寄せたが、乱暴に押し返された。

文句をつける。「何や、よう聞こえんわ」

「黙ってろ」火村は、心なしか紅く見える頬を向こうに向けて続けた。「いいから。用事があるなら言え」

私は、つられて顔が熱くなってきたのをごまかそうと、財布の中身を調べる振りをした。

「じゃあ、タクシー会社に連絡して、親切な運ちゃんに金払ってきてくれるか」

准教授は、そっぽを向いて答えた。「仰せのままに」

 

<どっとはらい>大嶋貢/ハッピーアイズ! 2009.11.09 webclap

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