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彼は、同期の中では火村と違う(良い)意味で一目置かれていた。在学中に司法試験に合格し、そのまま司法修習生になったはずだ。 二年生の頃から、法学部一の才女、二学年上の憧れのマドンナとつきあっていて、最短で弁護士になると同時に結婚したと伝え聞いた。 だから、おばちゃんでにぎわう店内に思いの外馴染んでいる彼には、有栖川変わらないなと声をかけられるまで、気づきもしなかった。 思った通りに、君は随分変わったなあとそのまま口に出すと、困ったように首をかしげながら、これだから有栖川はいいんだよと笑った。 当然のように大荷物を抱えたままで、レジ外のイートインコーナーで百円のコーヒーを差し出した彼は、いつも読んでるよと私を嬉し がらせ、離婚して妻に引き取られた、一年ぶりに会う娘のためにサインをくれないかと、今年も半ばを過ぎたというのに開いた跡が見え ない手帳を取り出した。私に否やはない。丁寧にサインをして返すと、これでお父さんは関係ないって言われなくてすむと破顔したのだ。 興味本位で根ほり葉ほり訊くのは私の望むところではないからその意味は訊かなかったが、だいたいのところは推察できる。比較的 結婚の早かった彼の娘はもう離婚の意味を理解できる歳で、当然引き取られた母親の味方なのだろう。彼の使われていない手帳や、崩れた 雰囲気からも、今の暮らしぶりが分かるから、彼の元妻(マドンナ!)や娘を責めることはできないが、実の娘に「関係ない」と言われる のは相当きついだろう。 そんなことがあって、昨日から「関係ない」という言葉が頭の隅に残っている。 私のひとりごとに答えたというにはあまりに遅いタイミングで、火村はつぶやいた。 「一年に一回くらいしか会わなければ、日常生活上は居てもいなくても関係ないだろう」 かわいくないことを言う。人間はただ日常を送るのみにあらず。私のように、生活の殆どを頭の中の世界で過ごす者もいる。頭の中では、 現実の距離や会えない時間を超えて、会いたい人や行きたい場所がすぐ近くにあり、常に自分を動かしている。 しかし、助教授の言うことも分からないでもない。人は、現実に近くにあるものだけに生かされているのではないが、遠くにあるものを 切り捨てなければ崩れてしまうこともあるから。 「じゃあ、何があってもせめて一年に二回以上会えるように、織姫様にお願いするわ」 笑いを含んだ声で答える。声に出さない私のひとりごとが、火村に届くように。 火村はもてあそんでいたキャメルをローテーブルに放り投げて言った。 「やつら天気が悪かったら平気で何年も会わないんだぜ。そんな縁起の悪い奴になんか願うなよ。誰に会いたいって願うんだ?」 「シャレやんか。本気で願ったりせえへんわ。誰に願ったって、そんなん無駄やもん」 私が会いたい人間が誰かなんて、今更言わせないで欲しい。分かっていて殊更に言わせようとするのは、この先生の癖だ。曖昧なこと は、つるつると指の間から逃げていってしまうとでも思っているのか、時々はっきりした答えを欲しがる。 「誰に願っても無駄?そうでもないと思うぜ、俺は」 かさついた唇が目の前に迫る。 「アリスは本当に無駄と思っているのか?言えよ、誰に会いたいのか。誰に願えばいいのか教えてやる」 そして私は、その質問に答えることはできなかった。
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